其の一
其の一 村田清次、若干25歳。 綿久製綿(株)初代社長へ。
ワタキューセイモア株式会社(旧社名・綿久寝具株式会社)が医療・福祉関連分野に進出する以前、綿久は製綿業を本業としていました。明治5年より続く村田製綿所。それが綿久の前身であり、創業140年余という私たちの歴史は、ここに端を発しています。
昭和16年、早くして清次の父・庄太郎が亡くなり、祖父・久七の代から続いた村田製綿所(屋号を綿久と言った)は母のハルエが支えてきました。昭和19年には長男・要太郎が、20年には次男である清次が第二次大戦に出征しました。清次は終戦の年の8月20日に復員。要太郎も昭和21年に復員しましたが、すでに結核で体を壊しており、すぐに亡くなってしまいます。昭和20年から25年まで、20代になったばかりの清次は母を助ける形で家業の商売を覚えていきました。
そして昭和25年。清次は綿久製綿株式会社を設立。若干25歳の初代社長の誕生です。資本金100万円。社員はわずか25人でした。株式会社の本社と言っても、今も京都本社の敷地に残る木造の建物。工場は製綿機がうなりをあげ、綿埃が舞うバラックのような建物でした。
其の二
「日本一の会社になったろうやないか!」という気概。
清次が社長になった昭和25年は朝鮮戦争の始まった年でもあります。この年の12月、アメリカ軍から日本の製綿業者に100万貫の発注があるという連絡が清次のもとに入りました。国連軍として朝鮮戦争に参加していたアメリカは、当時占領下にあった日本を後方支援、兵たん基地として利用。さまざまな物資の大量買い付けが行われました。世に言う、朝鮮特需です。
若干25歳の青年社長。初めての東京行きです。背広も旅費も借り物でした。「必ず日本一の仕事とってきたる!」と信心深い清次は、じっと窓の外に見える夜の生駒山を見ながら祈りました。その時、遠くに見える生駒山の稜線が、ぼーっと赤く光ったのです。清次は、目を見張って、(吉兆や。ありがとうございます。絶対、綿久を日本一の会社にしてみせます)と手をあわせました。
12月12日、横浜、桜木町の入札会場の中は、すでに多くの業者でごった返していました。大手の会社が軒並み入札に来ています。入札会場には、400社もの応札の人たちで溢れていました。清次が渡した書類に係員が目を通します。「316,000ポンド」という入札量の綿久の提示です。清次は、会社の実力の何倍もの量の受注を狙ったのです。こんな量まかないきれるわけない、と押し問答となり、後回しにされましたが、結局受理されました。
入札会場を出ると、清次はサンプル検査が明日だと言うのに「電報を打って、夜行で大阪に帰る!」と同行した営業部長に言い出します。当時のお金で200万円あった先祖代々の預金を大阪駅に持ってくるよう、電報で弟の秀太郎(現・会長)に指示しました。翌日のサンプル検査を部長に任せ、夜行で大阪に向かいました。
早朝、大阪に到着した清次は、朝の内に仕入先7社に手付け金を打ってしまいます。入札の結果が知らされるのは昼過ぎ。清次は、この入札で大量に必要となる原綿を、価格が高騰する前に押さえようと思ったのです。
「三菱につぐ2番目の大型落札」と新聞記事にもなったほど、実績にしたら1億円の受注です。「綿久は、納められないだろう」とか「若社長の若気の至り」と、色々陰口を言われました。120人もの近隣の人々を導入し、12時間体制を2部制で稼動。清次は寝る間も惜しんで、大晦日も正月も返上しての作業でした。そして翌年1月10日、予定より21日早く完納を果たしたのです。品質も良く、調達局より表彰も受けました。
この大きな利益によって勢いを得た綿久は「綿久わた」を全国に展開。当時まだ始まったばかりのテレビCMやホーロー看板等の広告もしました。大きく「綿久わた」というサインをつけた三輪トラックが全国を走り始めました。当時は、家庭でわたを入れて布団をつくるのが主流であり、その実演販売を行いました。
其の三
不況と不渡り。倒産の危機にも逆転の活路を見いだす。
しかし昭和34年、鍋底不況と呼ばれた不況により、綿久は存続の危機に見舞われます。手形は不渡り、大阪営業所も閉鎖し、250人いた社員も90人にまでリストラを断行。社員思いだった清次は断腸の思いでした。「また軌道に乗ったら、一緒に仕事してください。」と去ってゆく人たち皆に語ったということです。先代からの信用によってなんとか持ちこたえてはいましたが、倒産は時間の問題でした。
清次は4年連続落札していた法務省布団綿の入札に社運をかけることにします。製綿業界には、倒産の危機にある綿久は、入札に参加しないという噂が流れていました。もし参加しても、余力のある大手と真っ向から勝負するだけの体力は、すでに綿久にはありません。清次は一計を案じ、自分で入札に行かず、まだ高校生になったばかりの妹ナラエを行かせることにしました。競合他社は、清次がいないことで綿久は入札どころではないと判断。昨年、綿久が落札した643円を大きく上回る金額で入札しました。
落札業者の発表です。「1貫あたり、678円で、綿久さんに決まりました」という担当者の声に少女が立って、ぴょこんと頭を下げます。してやられたと、呆然とする他社の人たち。清次は入札会場の近所の喫茶店で結果を待っています。綿久が入札に参加しないという噂は清次の戦略でした。古くからの仕入れ先にお願いして流したものでした。結果は、前年より高い額での落札です。このウソのような本当の話で、絶体絶命の倒産の危機を逃れたのです。これを教訓に「わた」だけに頼るのではいけないと考えた清次は、注目を浴びつつあった洋布団の開発や職域販売へと乗り出します。
其の四
病院という新市場に向けた全く新しいビジネスへの挑戦。
昭和36年10月、職域販売の流れの中で、現在の綿久の中核をなす新市場開発へと乗り出します。それは、新たに法制度化が進みつつあった「病院基準寝具」への着目でした。
それまで、患者さんは、大八車に布団などを積んで行き、入院するのが普通でした。「病院基準寝具」の制定は、こうした入院病棟に関する粗悪な環境を是正するため、基本的な寝具類の準備およびシーツ類の消毒・洗濯を病院に義務づけようという施策です。当時、大手布団メーカーなどは貸し布団を基本に、クリーニングは病院で行う形で契約を進めていましたが、清次の発想は違いました。病床数の多い大きな病院は、それでもコスト的に採算が合うのですが、国内で圧倒的な数を占める中小の病院では、クリーニング施設の導入費や人件費のコストが見合いません。綿久が共同洗濯場をつくることで、消毒・洗濯業務の請負う形のビジネスを模索しました。病院への貸し布団とクリーニングを一括して面倒を見るという発想は、それまでの綿久の業容から見ればかなり異質なものです。加えて、クリーニング施設の新設、貸し出し用布団の生産と、多額の先行投資が必要です。
メインバンクの南都銀行に融資を頼むも、銀行はなかなか、首を縦には振りません。つい、この間まで倒産の危機にあった綿久です。管轄支店の支店長は書類も見ずにそっぽを向いてしまう始末でした。
しかし、当時まだ36歳の清次の情熱を、誰も押しとどめることなど出来ません。南都銀行頭取が所属している奈良ロータリークラブの立食パーティーの会場へ乗り込み、直接、頭取に交渉することに決めました。清次は京都のロータリークラブの会員であり、県外でも参加できる特権を最大限に利用しようと考えたのです。以前、何度も助けていただいている頭取です。この人なら自分の思いを分かってもらえるかもしれない、と最後の手段に出たのでした。
奈良の財界人達が優雅に食事をしているなか、頭取を見つけると、深々頭を下げて頼みました。清次の熱心さに頭取も折れて言いました。「そこまで言うのなら、2千万、ご融資しましょう。しかし村田さん、これが最後ですよ。これが失敗したら綿久はおろか、村田家もなくなる」。清次は、じっと頭取の顔を見て「覚悟は出来ております!」と決死の思いを伝えました。
自分を越えて、直接、頭取と交渉した清次に渋りながらも、管轄支店での融資が決まりました。ただし、当時は長期手形が多額に上がっていたため、新たに別会社として、綿久寝具株式会社を設立。昭和37年7月17日、綿久にとって第2のスタートが始まったのです。
其の五
九州炭坑離職者の受け入れで、新たな社員を確保する。
拡大した事業の人手を補うため、清次は、 当時、閉山の相次いだ炭坑労働者の再雇用に 目を付けたのでした。とくに佐賀県の小城炭坑との関係はその後も深く、日本全国に小城出身の社員が数多く在籍していたのも綿久らしい所かも知れません。
最初の交渉は前・綿久リネン(株)社長の西ノ村勝治との間で行われました。住み慣れた佐賀から、全く知らない京都の山奥に、長年苦労をともにした自分の仲間たちを連れていくことになる西ノ村は責任重大です。清次は熱弁を振って、「ウチはもう日本一になるのは約束されてるんですわ!ですからね、全然安心してウチに来なさい!富士山みたいな日本一の会社に一緒にしていこうじゃありませんか!とにかく、困らせるようにはせんから!」と情熱を語りました。
慣れない関西弁の調子と再就職を願う自分たちには少し的はずれな言葉に、西ノ村は戸惑いながらも、仕事に対する不安点や九州からの旅費のこと等を聞きました。すると、清次は「お金が一番無いんですわ。でも安心しなさい!綿久は今に日本一になる会社なんやから!」と高笑い。西ノ村は唖然としながらも、その剛毅さと正直さに、この人になら、これからの人生をかけてみても良いかも知れないと思ったそうです。西ノ村たち第一陣が佐賀から到着。清次は社宅を用意して大歓迎し、西ノ村は連れてきた家族に顔向けできました。当時、炭坑離職者を受け入れた企業は多いと言いますが、雇用が定着した企業は非常に少ないというのが現実です。そして、この出会いがその後、佐賀を本拠地とする九州への進出につながって行くのです。
其の六
本社の大火事にも打ち勝ち、寝具リースの全国展開へ。
病院基準寝具の賃貸および洗濯サービスは、さまざまな病院で評価を受け、次第に契約が伸びていきます。日本一をめざす綿久は清次の大号令のもと、九州をはじめ、全国各地での生産拠点づくりを行っていきました。しかし、保険点数の低さから収益がなかなか得られず、加えて先行投資による商社や銀行からの借入金の膨張により、その実状は決して順調とは言えないものでした。
そして昭和38年8月、追い討ちをかけるように、さらなる危機が綿久を襲います。本社第二工場から出火した炎は、瞬く間に京都工場全てを飲み込んでしまったのです。その頃、清次は、佐賀の九州事務所にいました。清次は火事の様子を聞くと「明日の朝一で戻る。間違っても社員を火の中に入れるな!社員が煙に巻かれたらえらいこっちゃ。燃えるものはみーんな燃してしまえ。わかったな!」と、電話を切り、深夜の飛行機で京都に急ぎました。
あくる朝、旧本社以外は軒並み焼けてしまっていて社員達は皆、呆然と立ち尽くしています。そこに戻ってきた清次は落胆することなく、笑顔で、みんなが無事で良かったと社員の安否を確認していきました。そして、レーンを用意し、使える機械を並べ、大きい仮設テントの手配を指示。すぐに仕事を再開します。落ち込んでいる暇もなく、社員たちは活気づいていきます。再建のエネルギーは、やがて新しい炎となって、綿久は全国展開を進めていきます。
全国展開する中でも北海道では、当初、さまざまな苦難がありました。基準寝具の制定後でも、所轄保健課から許可が下りず、無償で基準寝具のリースを続けることになったのです。思わぬ事態にかさむ出費、道庁へ何度も足を運び、係官の工場視察を取りつけるなど、幾多の努力が実り、昭和38年、ようやく認可が下りたのです。途中、同業他社は北海道市場から撤退。最後まであきらめず、忍耐の上に信念を貫いた綿久が、今も北海道の大きなシェアを獲得しています。
基準寝具が法制定された昭和37年からわずか2年の間に、佐賀の九州工場、北海道では網走、釧路、旭川、函館。鹿児島、東京と全国展開への足場固めをほぼ終えます。全国規模で事業展開する企業が、ほぼ皆無と言って良いこの業界で、この短い期間にそれを為しえた清次やそれを支えた社員たちの努力があって、現在のワタキューセイモアの地位が築かれたのです。
其の七
沖縄進出のあり方に見る、村田清次独自の経営視点。
昭和46年、綿久の沖縄進出は、本土復帰前のことでした。先手必勝の清次らしい判断で、当時・九州地域のリーダーをしていた村田秀太郎(現・会長)が先陣を切って、沖縄に乗り込みました。しかし、まだプレハブ建てであった事務所の前に、「綿久帰れ!」のムシロ旗を持ったデモが取り巻きました。
地場産業を荒らされると警戒した地元クリーニング協会の、激しい反発にあったのです。ムシロ旗には「本土資本の侵入を許すな!」「搾取されてたまるか!」「本土に帰れ!」「守れ!地元産業」などの言葉が書かれていました。当時、このような反対運動が起きたのには訳があります。ベトナム戦争の終結によって、沖縄を支えていた米軍の軍需業務が急速に減少し、沖縄経済は大打撃を被っていました。当時の沖縄の人々は、新たな本土資本の介入による独占を、最も恐れたのです。綿久は、病院の寝具を貸与し、シーツ類をクリーニングする事業を沖縄に根付かせようとしているのであり、一般のクリーニングとはバッティングしないわけですし、逆に言えば、沖縄のクリーニング業者にとっては、病院という新たな市場の広がりを提案することになります。本土資本で大型のクリーニング設備を持つという点だけで、大きな誤解があったのです。
清次自身も説得に訪れ、何度も、密な話し合いが持たれ、次第に両者の誤解は溶けていきました。既存のクリーニング業者への委託も視野に紆余曲折を経た沖縄綿久。清次は、設備の近代化を図り、沖縄人である安里氏を社長に迎え、本社工場での技術修得、経営ノウハウの指導などを行い、まさに沖縄のための事業作りを積極的に行ったのです。その後、一大リゾート地となる沖縄で、病院寝具、ホテルリネンともにトップシェアを誇る地元優良企業へと成長した沖縄綿久寝具。その姿は、すでにこの時見えていたことなのかも知れません。
地域に密着した事業所づくりで、その地域の雇用を創出し、地域に、地域医療に貢献する。だからこそ、仕事に、会社に誇りを持って働けるはずだという考えなのです。そして、工場内には責任者の自宅を設け、寝食をともにする形で、明日の綿久を担っていく。工場で働く人の多くは女性でありながら、勤続年数も高く、出産などで一時的に休職しても復職しています。社員を、地域を、大切にしてきた実績があるからなのでしょう。沖縄では、それをもっと進めた形で現地法人として実現させました。
社員を大切にした清次は、どの支店・営業所でも、まず工場に入り、現場の人たちに声をかけて回るのが日課でした。実に全国の社員全員のフルネームや家族構成まで覚えていたというのですから、驚きに値します。基本方針の「社員の皆様は、ともに働いて頂いている」という言葉の基礎は、ここにあります。
其の八
医療食への進出。患者さんが大切だという信念。
昭和47年、これまでの寝具や綿とは全く異質の医療食品の分野に進出します。現在、店頭公開を実現した日清医療食品(株)です。医療食から始まった創世期には、幹部社員のほぼすべてが事業の成功を疑ったものでした。当時の病院の食事は、患者の病状によって種類も多く、調理に時間がかかるため、いざ食事時になると冷めていたり、塩分などを抑えることで味気ないものであったりしました。それを改善し、患者の求める食を提供することは必ずビジネスになると、清次は考えたのです。まだ「医療関連ビジネス」などという概念も無い時代のことです。一介の基準寝具の洗濯・賃貸業者で満足していては不可能な発想です。そのうえ、基準寝具事業も黒字になっていない余裕などない時代でした。まったく新しい概念の商品ですから、病院側も二の足を踏みました。せっかくできた病院とのパイプです。備品や雑貨を売る方が儲かるという幹部社員たちの判断の方が正解だと言うべきでしょう。しかし、「患者にとって良い」ものは必ずビジネスになる、という清次の信念が当時の厚生省にも「医療食」という商品を認めさせるに至り、新しい事業への注力が始まりました。
おいしく栄養価も満たす医療食の研究、運搬に必要な車両の準備、遠方の病院にも輸送可能な体制づくりと、導入コストは莫大でした。そして何より、「医療食」の出現で自分たちの仕事が奪われるのではないかと考えた当時の栄養士協会の猛反対もあって、事業展開は困難を極めました。病院から栄養士を招いて「医療食」の試食会を開き、調理のしやすさや栄養価に理解していただき、試しに使っていただく、という地道な営業活動が各地で行われました。けれども、事業は赤字続きで、社内では何度も撤退が議論されたものです。その度に「患者が喜ぶものだ。病院さんにだって分かってもらえる。きっともっと買っていただけるはずや。今にきっと儲かる」と頑なに事業を守ったのでした。
其の九
村田清次は、医療・福祉社会に何を遺したのか?
ガンに侵された清次は、日清医療食品の黒字転換、新本社屋の完成を見ることなくこの世を去ります。昭和56年9月、享年55歳の若さでした。
晩年の清次の口癖は、「ワシに任せとけ。綿久も日清も、なんとかなる。待ってろ。だから、皆は、どんどん寝具の契約をとれ、医療食を売ってこい」というものでした。晩年とは言え、55歳の男盛り。清次の行動は、多忙を極めます。欠かせない支店・営業所巡り、各地の社員懇親会や旅行、運動会への参加、とくに慰安旅行や運動会は交流の場であり、意欲的に参加しました。営業に請われれば、各地の医療界の有力者にも会いに行きます。しかし、なんと言っても注力したのは、医療報酬の保険点数をアップしてもらうことでした。資本参加もしていた商社からの借り入れを減らし、無借金・独立経営を実現するためです。厚生省の担当局では「8点さん」というニックネームが付いたほどです。寝具の単価が8点(=80円)に上がれば、綿久だけでなく、業界全体のボトムアップにもつながります。この仕事が社会的に有用なビジネスとして認知されるわけです。当時の綿久としては、単価があがっても、コストがかかる医療食ビジネスへの資金導入や借り入れの返済で、利益はすぐに食われてしまいます。清次は休む暇無く、いっそう事業に注力していったのでした。
「ワタキューは大儲けした会社」と言う人たちがいますが、果たして、そうなのでしょうか。確かに、保険点数が倍になり、売上は倍、利益も倍以上になった時があります。しかし、当社の基準寝具事業だけ見ても、黒字に転換したのは昭和55年。清次が亡くなる1年前のことです。実に20年近い年月をかけて、この事業はビジネスと呼べるものになったのです。高度成長を続けてきた日本経済の物価上昇の中で企業経営に値する事業として病院寝具リース業を存在させていくためには、診療報酬制度の中で十分な利益を創出できるだけの保険点数が必要です。厚生省に対して医療関連サービスというものをビジネスとして認めさせていくことが重要であり、村田清次の晩年は、まさに孤軍奮闘。一生を賭けての大仕事を成し遂げたのでした。
医療関連サービスの第一号とも言える「病院寝具の洗濯・消毒付き賃貸サービス」が事業化されて、40余年。10年ほど前で、すでに病院寝具の外部委託率は95%を超えました。そして、この10年で病院や福祉施設は高齢社会・高度医療社会へのハード面での整備を終え、ソフト面での変革の路代が始まっています。利用者本位の視点から、直接的な治療・看護を除く仕事の外注委託化による環境整備や経営・運営面での合理化が進んでいます。給食、調剤、医療事務、売店、ベッドメイク、清掃、物品管理、衛生環境管理、検体・検査といった実にあらゆるものを外部に委託し、患者や利用者に向き合う医療サービスそのものを、より高度で快適なものに向上させようという考えです。
見えにくいところで私たちの暮らしを支え、欠かすことのできないもの。医療ビジネスという市場を創出した初代社長・村田清次と彼に共感し、ともにこの源流を創りあげてきた様々な人たちが、ここにいたことを私たちは忘れません。感謝の気持ちを心に込めて。